You’re OK!
私たちは患者様に、何でも相談してもらえる歯科医師でありたいと思っています。患者様はさまざまな不安や悩みを抱えていますが、こんな悩みを言っていいのだろうか?こんな治療を希望するのは、常識外れではないだろうか?と躊躇なさることもあると思います。
どうぞ、その悩みをお話し下さい。
その声こそが私たちを成長させてくれる原動力です。
そして、そのベースになる考えが「I am OK!You are OK!」です。どんな考え、気持ち、希望であっても、私たちはそれを否定することなく、耳を傾けて、患者さんの希望がかなうように最善を尽くしたいと考えています。
I’m OK、You’re OK!
お母さんと男の子がいました。あるとき、お母さんと男の子は遊びに行きました。男の子は一人で遊んでいましたが、急につまずいて泣きだしました。気づいたお母さんは駆け寄って「どうしたの、大丈夫?」と、子どもを抱き起こしました、
「痛くない?ほかに怪我はない?大丈夫?」
別のお母さんと男の子がいました。同じように、お母さんと男の子は遊びに行きました。男の子は一人で遊んでいましたが、急につまずいて泣きだしました。気づいたお母さんは駆け寄って「男の子でしょ、 一人で立てるでしょ!」と励ましました。子どもは立ち上がりました。
ある小学校の校長先生は、どっちのお母さんの方が頑張れる気になれる?と全校の児童に聞きました。多くの子どもは、「最初のお母さんの方が頑張れる気になる!」と言ったそうです。
前者の場合、子どもは「自分は大切にされている」、「ありのままの自分で良いんだ」、「自分はここに存在して良いんだ」、「I’m OK、なんだ!」と感じます。
次のお母さんの場合、子どもは、「自分は大切にされていない」「ありのままの自分ではダメなんだ」「I’m not OK」と感じます。
わたしたちは、自分のいいところも悪いところも、全部受け入れられて、愛されることを望んでいます。矯正歯科治療にチャレンジしている患者さん、ご家族のみなさん!私たちは拍手をもって、お迎えいたします。「I’m OK、You’re OK!」(私は、私のままでいいよ、あなたはあなたのままでいいよ!)この理念をとくにとくに大切にしていきたいと思います♪!
※最初にこの話を校長先生から聞いたのは、2011年頃でした。その際に出典は何でしょうか?と聞きましたが、いろんな話を総合して作った話とのことでした。
その後、1950年代後半に精神科医エリック・バーンによって提唱された交流分析に、この考えの基礎があることがわかりました。
私たちは、患者のためという考えで医療に携わっています。
そして、スタッフ全員が同じ方向を向いて行動できるように、
理念を明文化し、日々取り組んでいます。
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明るい笑顔で元気にあいさつ!
Smile -
お互いを認めあい、感謝の気持ちを忘れません
You are OK! -
歯ならびのプロとして誇れる仕事をします
I am OK! -
相手の利益を優先し損得にかかわらず本気でとりくみます
Good Honest -
目標にむかっていつも成長します
Growth
二階堂邦彦 (にかいどう くにひこ)
歯科医師 歯学博士
東京都生まれ
「Smile@立川おとなとこどもの矯正歯科」院長
東京歯科大学卒業後、同大学矯正科大学院終了、同大学矯正科非常勤講師を経て現在、東京都立川市にて矯正専門歯科を開業。
【趣味】
- フルマラソン:自己ベスト03:38:53(2008年 別海町パイロットマラソン)
- 登山:日本の3,000m峰21座はすべて登頂
- スキー:新雪を滑る山スキーも大好きです!
- 音楽:演奏はできませんが、山下達郎の大ファンです
資格
- 歯科医師
- 歯学博士
- 指定自立支援医療機関
- 顎口腔機能診断施設
略歴
- 1979年
- 都立日比谷高校 卒業
- 1985年
- 東京歯科大学 卒業
- 1988年
- 同大学 歯科矯正学講座 研修課程修了
- 1993年
- 同大学 大学院 卒業(歯科矯正学講座)
- 1993年
- 日本矯正歯科学会 認定医
- 1993年
- 東京歯科大学 非常勤講師(歯科矯正学講座)
- 1995年
- 二階堂矯正歯科クリニック(札幌市)開業
- 2012年
- Smile@立川おとなとこどもの矯正歯科(東京都立川市)開業
- 2015年
- 指定自立支援医療機関、顎口腔機能診断施設 取得
所属学会
- 日本矯正歯科学会
- 顎変形症学会
- 日本口蓋裂学会
- 日本舌側矯正歯科学会
- 東京矯正歯科学会
- 北海道矯正歯科学会
その他所属団体
- 日本臨床矯正歯科医会
- 非抜歯研究会
- 日本歯科医師会、東京都歯科医師会、立川歯科医師会
学位論文・症例報告
①二階堂 邦彦
各種不正咬合者の咀嚼運動に関する研究
(歯科学報93巻1号、51-69 1993年)
②二階堂 邦彦
マウスピース型カスタムメイド矯正装置を用いて治療した非抜歯叢生症例
(日本臨床矯正歯科医会雑誌、33巻2号、51-52、2022年)
学会発表
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二階堂邦彦(Smile@立川おとなとこどもの矯正歯科)
「いわゆる二重歯列(二枚歯)の成人叢生症例について」 -
日本アライナー医療研究会(JAMS)第三回研究会
2017年12月23日 昭和大学歯科病院臨床講堂
小学生時代
私は、東京都江東区門前仲町に、2人兄弟の次男として産まれました。門前仲町というのは、富岡八幡宮がある門前町、毎月3日も縁日が出る庶民的な町です。子供の頃は、真っ暗になるまで近所の神社や公園などで遊びました。家では、LEGOを作ったり、プラモデルを作ったり、とにかく手先を動かすことが大好きでした。
父は歯科医院を開業しており、自宅と併設されていたので、父は夕食を食べたあと歯科医院に戻って、患者さんの歯の詰め物や入れ歯を作ったりしていました。父の作業を見るのが大好きでした。
父との思い出
私の父・二階堂則彦は、新潟県南蒲原郡加茂町(現加茂市)で生まれました。
医師の家系でしたが、物心つく前に父(私の祖父)が病死したので、祖母は苦労して父を育てました。しかし父は末っ子だったので、とても周囲から可愛がられて、自宅の裏山を駆けまわったり、冬はスキーを楽しんだり、とても伸び伸びと育ったそうです。昭和17年に東京歯科医専(現・東京歯科大学)に入学しました。叔父の江戸川区の医師・田村廿三郎宅に下宿し、戦中の厳しい学生生活を過ごしました。(田村廿三郎氏は1925年に、便秘が原因の熱やひきつけに苦しむ子どもたちのために「イチジク浣腸」の考案した内科医です。)
戦後は第1回の歯科医師国家試験に合格し歯科医になりました。「弗素に関する研究」で医学博士の学位を取得、勤務医を経て1960年に門前仲町で歯科医院を開業しました。
1960年代、70年代の高度成長期に働き盛りを迎え、朝早くから夜遅くまで診療し、日曜日にはテニスやスキーなどのスポーツを楽しみ、囲碁の腕もなかなかだったようです。また歯科医師会も熱心に参加し、仕事も趣味も頑張るとてもタフな父親でした。
スキーとの出会い
父はスポーツ好きだったので、私も小学生の頃から良くスキーに連れていってもらいました。私は運動が苦手でしたが、スキーだけはグングン上達し、大好きでした。一番の思い出は小3のときに行ったニセコ高原。北海道のスキー場や雄大で目を見張りました!父と二人きりで3日間スキーをしたのは本当に良い思い出になりました。当時まだ蒸気機関車が走っていた北海道の自然の雄大さに魅せられ、北海道への憧れの気持ちが芽生え始めました。
中学、高校時代
理数系が得意だった父は、子どもに勉強を教えるのが好きでした。私も自然に中学受験にチャレンジしました。しかし、有名中学しか受験しなかったため受験は全滅で、とても辛いものでした。しかし中学3年間また勉強を頑張り、高校受験では慶應志木高校、そして都立日比谷高校に合格できました。歯科医師や医師を目指していたので、大学までつながっている慶應志木高校はやめて、都立日比谷高校に進学しました。
ところが、日比谷高校は、当時は勉強をするのもしないのも自由な校風、小4から6年間の受験勉強に疲れ、ワンダーフォーゲル部や、映画作りなど、趣味に没頭しました。そのため成績は下降線!憧れの北海道で大学生活を送りたい!医者になって祖父のあとを継ぎたいという夢は遠のきました。
東京歯科大学
現役では、父の母校である東京歯科大学を受験しました。多分失敗するだろうと思い、浪人して北大を目指そうと考えていましたが、思いがけない合格でした。現役で進学するかどうか大変悩みましたが、子どもの頃に父と一緒に技工作業をしたり、父の白衣姿に憧れた子供時代も思い出し、父の母校で歯科医の道に進もうと決意しました!
入ってみたら、全国から歯科医をめざす明るい学生が集まっており、一気に世界が拡がりました。ワンダーフォーゲル、映画制作、スキーなど、多くの部活・同好会にはいり、勉強以外の多くの場で、多くの人々と交流することができました。とくにワンダーフォーゲル部では、2週間のテント泊の夏合宿、山スキー、沢登りなどアウトドアのフィールドを広げました。
それまでは運動音痴だと思っていましたが、持久力という持ち味があることを発見しました!そしてこのアウトドア好きは現在でも続いて、登山、スキー、フルマラソンなどを楽しんでします。
趣味で頑張れると、次第に成績もあがり、歯科医師の国家試験も合格することができました。
矯正歯科
歯科を勉強していて強く思ったのは、日本人の歯並びがとても悪いことです。これではむし歯や入れ歯になるのは仕方ないだろう。ところが、歯科の治療の悪いところを削って詰め物をしたり、悪い歯を抜いて入れ歯にするとった、いわば対処療法が中心。いってみれば、すぐに壊れるローコスト住宅を建てて、一所懸命修理をするようなものです。だったら一生もつ「新築」の歯並びを作って、歯の治療を最小限にするのが王道だと思い、矯正歯科をめざすようになりました。
母校の矯正歯科講座に入局し、3年間フルタイムの矯正歯科医研修コースをに入りました。朝から、入れ替わり立ち代りで先輩の歯科医の講義があり、夜になると、今度はワイヤーベンディング(針金曲げ)の実習です。大学を卒業後、直ぐに勤務した友人は、給与をもらいながら楽しく仕事をしているのを聞きましたが、私たちは講義を受けたり、毎晩ワイヤーと格闘したり、レポートを書いたりと、家には寝るだけに帰る生活になりました。しかし、一流の歯科医師になるためには今が大事!鉄は熱いうちに打てと、自分に課した時期でした。
国家試験から、この矯正研修の3年間、そしてその後の大学院と、人生でもっとも勉強した時期でした。
札幌での開業
3年の研修後に、大学院にて歯学博士の学位を取得、その後勤務医を経て、結婚、開業をしました。
どこで開業するかそれこそ全国を考えましたが、地元密着で、夫婦で温かい矯正歯科を作りたいと考え、小学校の頃から憧れていた北海道札幌市に移住しました。子育てをしながら、3人の子供とともに北海道らしい生活を営むことができました。家族全員で夏は登山、冬はスキーと自然に触れ合いながら、過ごしました。仕事は順調で、札幌という土地柄、決して大盛況ではありませんでしたが、私の持ち味である丁寧な矯正治療が実現できたと思います。歯科医師会や札幌の矯正歯科医会にも入り、徐々に北の生活にも慣れてきました。
ところが、妻が子どもの頃からの夢だった教員になりたいと言い始めました。最初は驚きましたが、私も妻の夢を叶えることを応援しました。私のすすめで妻は通信制の大学に入り、2年で小学校2種全課程を終了しました。教員試験は札幌と東京を受けたのですが、札幌では合格に届かず、東京都で合格通知をもらいました。その結果、妻は単身赴任で東京の教員になり、子どもと私は札幌に残って、家族が離れ離れになる生活が始まりました。家族全員が慣れない環境になりましたが、「ピンチはチャンス!」それを乗り越えることで、家族全員がそれぞれ自立し成長すると信じて、この生活を前向きにとらえるようにしました。
立川での開業
私は月に1度は2泊3日で、子供を連れて東京に行き、妻も長期休暇には札幌に戻る。そんな生活が2年続きました。次第に夫婦が別々に暮らしているストレスを感じ始め、どうしたらそこから解放されるか良いか考えるようになりました。妻が再び札幌に戻るか、私が東京で開業するのか?大自然がいっぱいで、子育てにも優しく、適度な都会である札幌での生活を懐かしく思うこともありますが、親の近くのありがたさ、友人も多いふるさと東京での生活が、よりも「幸せ」になると直感しました。そして東京へ移転、再開業をすることにしました。ただし、自分が札幌で治療開始した患者さんは、最後まで自分で終えることは当然の責務と考え、月の半分は札幌に行き患者さんの治療を継続しました。
立川市は、もともと私の母の実家があったので、小さい頃はよく祖父母宅に遊びに来ていました。立川駅のとくに北口は、再開発で区画整理もきれいに行われ、なにより「昭和記念公園」が近く、土日にもなれば大勢の家族連れが訪れる場所です。自然豊かで道路が広い札幌に近いイメージで、大変気に入りました。幸い今の物件が一戸建ての1階部分で、アットホームは雰囲気でとても気に入り、現在地に移転開業することになりました。オープンしたのが2012年3月のことです。
そして、2016年に札幌の患者さんが終了し、札幌往復の生活が終了しました。
今後のSmile@立川おとなとこどもの矯正歯科
100年続く歯科医院を目指して、さらなる発展を続けていきます。